平成30年7月豪雨の記録【片付け】
タイムリーな情報を求めて
救助された翌日は早めに起きて情報収集。
特にTwitterで真備町の情報を集めながら実家までたどり着けるか検討していました。
前日、義妹が実家近くまで行ってくれたおかげで自宅近くまで行けることもわかり出発。
しかし真備町へ向かう車が多く、通常は1時間足らずで到着できるところが約2時間弱かかり到着。
ご近ではすでに片づけを開始されていて、路地の一番奥にある我が家の前までには車を入れることができませんでした。
変わり果てた実家を見てあらためて「生きていてくれてよかった」
父親がカギを開け、玄関の扉を開けると…
荷物が散乱。
汚泥
そして異臭
片づけを始める前に、被害状況の写真を撮らなければならないとの情報があったので、
夫に家具をかき分け、中に無理やり入ってもらいました。
家具を乗り越え、なんとか窓までたどり着きカギを開けもらって初めて外から入れました。
もちろん土足で。
どこだったかテレビの取材が入りました。
父親が、気丈にも対応していたのは覚えていますが、
私はこのあたりの記憶がほとんどありません。
呆然と家を見上げている私が…
変わり果てた実家を受け入れられなかったのだと思います。
家の写真も罹災証明をとるために必要だから、
「各自ができるだけ写真に撮ろう」と言っていたけど、
私が写したのは…たった3枚。
泥だらけの中でも咲いている桔梗
太陽の光を浴びて咲く薔薇
こんな状況でも生きていたバッタ
私がやっと家の写真を撮れたのは、片付けが始まって5時間ほどたったころのこの1枚だけ。
澄んだ青空がまぶしすぎる。
これだけの荷物があっても、まだ5つある部屋のうち、1つの部屋の1/3ほどしか済んでいません。
はかどらない片付け
両親は、家財道具の中からまだ使えるからと大切なものを引っ張り出していました。
特に母親はすべてを手元に持っておこうとして必死。
「あれもいる。これも必要。これは使える。これは高かった・・・」
私はそんな母親の後ろをついて回り、
「これは使えない。これは必要ない。これは使ってない。これもいらない。これは捨てる!」
そう言ってずっと母親と大ケンカ。
今ならわかるのです。
突然起こったこの事態を受け入れられないということ。
受け入れるには時間がかかることも。
それでもこの時の私は、ただこの状況から早く未来につなげたかった。
未来を見ていなければ、辛すぎて片づけることができなかったのだと思います。。。
私が幼い子供のころからずっと暮らしてきた家でもあります。
思い出は、あちこちに詰まっています。
それはすべて母親の愛情。
幼稚園の頃のおえかきちょう。通信簿。夏休みの宿題の作文。
小学校の制服、歩き出したころ母が作った小さな小さなかわいいワンピース。
姉弟3人分。母親が大切にしてくれていた愛情。
それを思うと、今も涙が止まりません。
できればすべてそのままにしておきたかった…
「つらいのはお母さんだけじゃないのよっ!!」
そう言い、泣きながら土嚢袋に思い出をどんどん詰め込みました。。。
ボランティアさんたちの存在
やっと畳1枚が出せそうになったのは夕方。
たまたま近くにいたボランティアの男性にお願いして手伝ってもらったら、
なんとその方は市内にいる友人がお声をかけてくれた男性の方。
それがご縁で、すぐご近所に住んでいたMさんのもとに集まった、
有志でできたボランティアグループの方にお手伝いいただいて、家族で6時間かけてもどうにもならなかった部屋5部屋のうち、2部屋の荷物を、たった2時間程で、ほぼ外に出してくださいました。
ボランティアさん達は、目の前にある荷物を「いるかいらないか」を尋ねてくれます。
そのたびに、母と私は「いる、いらない」で大ゲンカ(笑)
そんな時でもボランティアさんたちは優しく見守ってくださいました。
私よりもずっとずっと若い人たちが、「いいんですよ」「大丈夫ですよ」「ゆっくりで」と言ってくれます。
私たちが笑顔になれなくても、みなさん笑顔で黙々と手伝ってくださる。
ボランティアさんたちのやさしさが身に沁みました。
翌日(7月10日)も来てくださってあっという間にのこり3部屋の荷物を出してくれました。
何もなくなった部屋。
何にもなくなった部屋で甥っ子といろんな話をしました。
「僕が玄関から入って、このドアを開けると、いつもおじいちゃんが本を読んでいて『どちらさまですか?』って言うんだ」
「ここでみんなでご飯食べたり、ゲームしたよね」
「僕は隣の部屋でおばあちゃんと一緒によく寝たよ」
「おばちゃんが小さい頃はどうだったの?」
私が話す昔の家のことを、じっと聞いている高校生甥っ子。
涙ぐみながら話す私を気遣ってくれながら、
時折目頭をそっとぬぐいながら聞いてくれたね。ありがとう。
正直最初の1週間は怒涛のように流れていきました。
力をもらった
毎日自宅へ戻ると玄関の前に支援物資を誰かが置いてくれていました。
どれほどありがたかったか…
お見舞金までお送りいただいたり。わざわざお持ちくださったり。
いずれもありがたく頂戴いたしました。ありがとうございました。
覚えていてくれる。
気にかけてくれている。
それがどれほどの勇気を与えるのか。ということを知りました。
毎日何通も下さるLINEやメール、メッセンジャー…
とてもありがたい言葉もありましたが、
一昔前なら、携帯を真っ二つにしたいくらいのメッセージもありました(笑)
そんな時こそ笑いを・・・
こんな状況でも、笑いは必要なのですね・・・
暑さにやられたのか?
もともとなのか??…はわかりませんが、
土嚢スタンドというネットをかぶってふざけている、我が夫の写真を大笑いしながら撮れるまで余裕も出てきました(笑)
でも一番しんどかったのは、暑さと臭い。
中学生の部活動のとき以来、35年ぶりに頭から水をかぶりましたよー。
熱中症一歩手前。
2リットル以上の水分をとっても、トイレには全く行きません。
臭いは麻痺しますが、それでも日にちがたつとキツくなってきて、
部屋に精油をたらしたりしていました。
精油の効果はびっくりするくらい感じたので、それはまたご報告いたします。
1週間過ぎたころ、仕事の関係で片づけに来れなかった弟たちが来てくれるようになりましたし、
友人が声をかけてくれた15人ほどのボランティアさんたちも来てくださって、
我が家だけではなく、ご近所さんや幼馴染のお家も随分片付きました。
もう1ケ月・・・
町の風景も少しずつ変わってきました。
とはいっても瓦礫が山のように残っているところがありますし、まだまだ片付いていないところもあります。
もう少しで1ヶ月が経ちます。
あっという間です。
こうして1年2年とすぐに過ぎていくのでしょう。
私はこの1か月の記憶があいまいです・・・
なんだか日々、力技で終わらせてきたように感じます。
いろいろな方々に失礼なことをしてしまっている気もします。
まだちゃんとお礼も言えていません。
一区切りついたら皆さんにお礼を言いたいと考えています。
片付けと同時に、様々な手続きもしなくてはなりません。
そして毎日、何かを決断しなければなりません。
私たち世代でも、今後の人生を左右するような決断をするのに時間がかかるのに、
高齢の両親からすれば、ひとつのことを考えるだけでも疲れるようです。
ひとつの区切りになるのが、住む場所の確保だと思っています。
来週にはみなし仮設住宅への入居が出来そうです。
それが一つの節目になると思います。
全てがまだこれからです。
今後、実家をどうするのか。
毎日毎日気持ちは揺れているようです。
私も揺れます。考え始めると涙が出てきます。
それでも進んでいます。
変化しています。
以前、東北に住む叔母に言われた言葉の意味が今ならよくわかります。
「あなたたちは普通にしていて。いつも通りしていて。それが私達の励みになるから。だけど私達を忘れないでいて。」
忘れ去られるのは寂しい。
だけど、普通にしているみんなの日常を見ることで、未来に目が向くような気がするのです。
普通の生活を送っていることを申し訳なく思わないでください。
私自身も岡山に戻れば普通の生活を送っています。
だけど、未来を見ながら歩いていきます。
だから、私ができることを始めました。
ボランティアでの活動は私にいろいろなことを教えてくれています。
これからも続けていきます。
できる形で、できることを。
そして笑顔で。
この体験は、これからの私に家族の大きな転機になるのは間違いありません。
だからこそ、時に泣きながら前に進みます。
泣くことも。
怒ることも。
笑うことも。
心の浄化の一つだと、心理療法家の端くれとしてよく理解しています。
・・・が、わかっていてもできないことがあることをよーーく覚えておこうと思います。
今月末、私は50歳になります。
素晴らしい転機を迎えることに心から感謝です。
(おわり)
※今回の災害の覚え書き。これでいったん終了です。
ですが、まだまだこれからです。
今回のことで学んだことは今後ブログでご紹介していきます。
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